人物エピソード - 竹中半兵衛 秀吉を支えた知略の戦国武将の生き様とは?

竹中半兵衛は豊臣秀吉に仕えた名軍師です。彼は三国志の天才軍師・諸葛亮孔明と比較されるほど賢く、彼の死後に秀吉は「半兵衛どのを失ったのは蜀が孔明を失ったにも等しい損失じゃ」と号泣したと言われています。知略に優れた彼の逸話は数知れず、その逸話から感じ取れる彼の生き方や信念は誇るべきものです。
・優秀な軍師に似合わず、所持品は質素にするという信条
・人の心の扱いに長け、それをも戦略に組み込むしたたかさ
・君主に反してでも、自分が正しいと思うことを貫く生き様
このような竹中半兵衛の生き方を、逸話を交えて紹介していきます。
竹中重治(半兵衛)の生涯
1544年、竹中半兵衛は美濃(現在の岐阜県)に斎藤家の家臣として生まれます。10代半ばの頃、父が不在の中、所有していた城を襲われますが、手堅い戦術で敵軍を退けるという輝かしい初陣を飾ります。その後、兵法や軍略の勉学に励むようになりました。19歳で家督を継ぐと、21歳の時に17人程で稲葉山城を乗っ取ります。その功績が称賛され、織田信長の家臣となり、のちに豊臣秀吉の参謀として活躍します。1579年に36歳の若さでこの世を去ります。
竹中重治(半兵衛)の名言・格言
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要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければものの用をなさない
「堅固な守りを誇る立派な城があったとしても、人の心が一つにならなければ無意味」という意味で、難攻不落と言われた稲葉山城をたった17人ほどで制圧した際の言葉だと言われています。
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分に過ぎたる価をもって馬を買うべからず
これは半兵衛が常に貧相な馬に乗っていたことを気にかけた秀吉に対しての返答で、「高すぎる馬は買うべきではない。なぜなら、戦場で高価な馬のことが気にかかり、注意力が散漫になってしまうからだ」という意味が込められています。常に戦でのパフォーマンス必要経費を考えていたことが分かります。
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竹中重治(半兵衛)の成果や実績
竹中半兵衛の人柄や生き方が分かる逸話を三つ紹介します。
主君を諫めるための稲葉城乗っ取り
まずは、半兵衛が斎藤龍興に伝えていたときのエピソードです。龍興は酒や女遊びにおぼれて、国政を顧みない人物でした。一部の側近のみを重用し、半兵衛の意見には耳を傾けませんでした。そんな龍興を見かねて、城を乗っ取るという警告手段に出ます。人質として城内にいる弟に病気と偽らせ、見舞いという口実で家臣数人を送り込みます。その後、10人程で武器をもって乗り込み、城を乗っ取りました。「こんな無警戒の城はいつでも落とせますよ」と諭す目的だったのだと言われています。
ただ、半兵衛にはそれ以上の欲はなく、城の譲渡を求めた信長の申し出を断り、龍興に城を返しています。ここに半兵衛の無欲さや自分の行いへのけじめがわかりますね。
知らぬ顔の半兵衛
竹中半兵衛がもとになったとされる「知らぬ顔の半兵衛」という諺がありますが、彼は飄々と相手を利用したり出し抜いたりすることに長けていました。それが分かる逸話が二つあります。
彼が斎藤氏の家臣だった頃に、織田信長は半兵衛を寝返らせるために前田利家を送り込みました。半兵衛はそれを見抜き、素知らぬ顔をして親睦を深め、逆に織田軍の兵力などの情報を引き出したのです。その結果、織田勢を撃退することができました。人の心や戦況を読み解く能力と人心掌握術に長けていたと推測できます。
もう一つの逸話は秀吉の配下についた後の長篠の戦いでのこと。秀吉の陣の前で敵の武田軍が移動を開始しました。秀吉は「挟み撃ちにされるのでは」と思い撤退の命令を下しますが、半兵衛は「これはただの陽動だ」と見抜き、命令には従いませんでした。その結果、武田の軍勢は本体と合流し、半兵衛の陣に攻めかかります。それを何とか食い止め、時間稼ぎに成功しました。もし半兵衛が秀吉の命令に従っていたら陣は壊滅していたとも言われます。上の者への命令に背いてでも自分の正しいと思うことをする半兵衛の信念の強さと、それを成し遂げうる実力には脱帽ですね。
竹中重治(半兵衛)の愛用品や大切にしていること
愛刀:虎御前の太刀
この刀は、半兵衛の戦果を挙げた半兵衛が秀吉からもらったものです。彼はこの刀を後生大事にしたようですが、実戦で使用したことはあまりなかったようです。
尊敬していた人物:黒田官兵衛
黒田官兵衛は同時期に秀吉のもとに仕えた名軍師でした。半兵衛とは正反対の性格を持ちながらも、優れた戦術と人柄で半兵衛からの信頼を得ていたようです。
半兵衛と官兵衛の絆を象徴するエピソードが一つあります。織田信長の家臣・荒木村重の謀反で黒田官兵衛が幽閉された時、織田信長は官兵衛が裏切ったと誤解し、官兵衛の息子を殺せと命じました。しかし、半兵衛は官兵衛の息子を殺したふりをして彼をひそかに匿っていました。半兵衛は官兵衛が裏切っていないことを確信していたのでしょう。
この逸話は、命令に反してでも自分の考えを貫いた半兵衛の生き方も象徴していると言えましょう。
まとめ
様々な逸話から、竹中半兵衛の生き方や考え方を見てきました。自分の考えを貫く強さ、人や財源を有効利用するしたたかさ、戦いの場で常に良いパフォーマンスができるような心構えなど現代にも通じるところがありました。竹中半兵衛はこのようにして、信頼と実績を重ねていった人物なのです。
参考資料
- 井伊美術館『名物「鉄(くろがね)の鞍」』
https://www.ii-museum.jp/blank-59?lightbox=dataItem-jhlkem7p - 歴史の魅力『竹中半兵衛』
https://rekishi-miryoku.com/article/takenaka_shigeharu/ - WEB歴史街道『黒田長政の「一の谷形」の兜は金色に輝いていた?』 PHP研究所
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2585 - Rekisiru『竹中半兵衛とはどんな軍師?生涯・年表まとめ』
https://rekisiru.com/989 - 藤堂しま『竹中半兵衛のおすすめ本4冊。豊臣秀吉の両兵衛、黒田官兵衛とあわせて読む』 ホンシェルジュ
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/1638 - pinon『「竹中半兵衛」は無欲にして剛毅な天才軍師だった』 歴史ヒストリー
https://sengoku-his.com/502 - 加来耕三『秀吉の天下取りに尽力 竹中半兵衛“兵法の極意”』 月間ゲンダイ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/232077 - 産経WEST『竹中半兵衛、山本勘助、そして官兵衛…作戦失敗は即ち死、リーダー以上に重い軍師の“非情の世界”』
https://www.sankei.com/west/news/141201/wst1412010006-n3.html
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