人物エピソード - 一流志向の江戸の豪商 高田屋嘉兵衛の知られざる生き様とは

高田屋嘉兵衛は江戸時代の豪商で、司馬遼太郎に「江戸時代で最も偉い人」とまで語らせるほど才能のある人物でした。彼は船乗りとして函館を商売の拠点にまで発展させました。また、彼はゴローニン事件をきっかけにロシアに捕らえられてしまいますが、たった一か月でロシア語を習得したことで、緊迫していた日露関係を改善したという伝説が残されています。
そんな彼の生き様は立派なものでした。彼の生き方に学べる事はたくさんあります。
・愛国心と責任感
・「対等であること」が信条
・類まれなるコミュニケーション能力
・常に一流たる威厳
江戸最大の成功者ともいえる彼の生き方や性格を、逸話を交えて紹介していきます。
高田屋嘉兵衛の生涯
嘉兵衛は幼い頃から海に親しみ船を愛していました。
嘉兵衛は22歳で樽廻船の水主となりました。
28歳で当時国内最大級の船・辰悦丸を建造し、やがて「高田屋」を立ち上げます。函館の土地の利に気づいた嘉兵衛は、函館を商売の拠点として発展させました。
後に、幕府から「海路乗試御用船頭」、「定御雇船頭」に任命され、近藤重蔵とともに北方の調査と漁場開設に貢献します。
高田屋嘉兵衛の名言・格言
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皆人ぞ
嘉兵衛が口にしていた言葉で、「地位や権力など関係なく、人間はみな対等だ」という精神を表しています。どんな人にも誠実だったため、アイヌとの貿易やロシアとの国交を通して、多くの人から信頼されていたようです。
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只天下のためを存おり候
これは、ゴローニン事件でロシアに連行された後に、嘉兵衛が弟宛に出した手紙の一節です。
手紙には「捕らえられたとて命が惜しいことはありません。幕府の考えも少しは分かっています。日本に不利になることは致しません」「ただ国家のためを思っております」といった旨が書かれていました。ロシアとの国交は当時鎖国していた日本にとって大問題でした。商人なのに、国全体を背負う気概と責任感を持っていたのは驚きです。この言葉に彼の想いと信念が詰まっているように思います。
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高田屋嘉兵衛の成果や実績
信頼関係を気付く力
嘉兵衛はゴローニン事件に巻き込まれた立場でありながら、ロシアとの交渉を取り持って、ロシアとの不和を阻止したエピソードが有名です。
当時ロシアは日本に進出しようとしていました。ロシアの動きを危惧した幕府は、国防対策を急ぎます。
ロシアのゴローニン艦長が水・食料の補給を得ようと上陸したので、ゴローニンを捕らえました。副艦長のリコルドは報復として、嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカに連行抑留します。
ここで、嘉兵衛はリコルドと同居することを条件に出しました。相手を観察して理解するため、言語を学習するためだったと言われています。
嘉兵衛は、積極的に現地の人とコミュニケーションをとって、ロシアや日本に関する様々な情報を手に入れていました。しかし、異国の人から情報を手にするのは簡単ではありません。
そのために、嘉兵衛は信頼関係を築くことを大切にしていたのです。彼はロシアの文化と言語を早々に習得することで信頼を勝ち取りました。また、現地の人をパーティーに招待するなど大盤振る舞いを見せて、当時ケチだと思われていた日本人のイメージを払拭しました。それによって、彼はロシアとの国交を打ち立てたのです。
そのために、嘉兵衛は信頼関係を築くことを大切にしていたのです。彼はロシアの文化と言語を早々に習得することで信頼を勝ち取りました。また、現地の人をパーティーに招待するなど大盤振る舞いを見せて、当時ケチだと思われていた日本人のイメージを払拭しました。それによって、彼はロシアとの国交を打ち立てたのです。
責任感に溢れた行動
彼の立派な点はそれだけではなく、船頭としての威厳や責任感にあふれた行動にもあります。
嘉兵衛自身はロシアに連行された時のことを、「わたし位の肩書きの人間になると,お前さんが連行すると言ったようには,捕虜となって外国へ行くわけにはいかないのだ。カムチャッカへは自分から行ったのだ」と語ったそうです。
これはロシアと対等に向き合って、威厳を保つためだと考えられます。
また同様の理由で、彼はロシア政府からの補助を受けずに自炊していたと伝えられています。
嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得しました。リコルドはその言葉を聞き入れ、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴローニン釈放が実現します。嘉兵衛も日本に解放され、日本とロシアの国交が正常化したのです。
高田屋嘉兵衛の愛用品や大切にしていること
あちこちに金つぎされた赤楽茶碗
いつも番茶を飲むのに使っていたようです。
嘉兵衛は商売がさかんとなっても綿服を着て、番茶しか飲まず、一汁一菜の粗衣粗食を生涯とおしたと言われています。儲けは船と商品の再投資に回すとともに社会に還元しました。晩年には故郷で港や道路の修築などをして、世の中のために功績を残しています。自分の身を削って世の中に施すところや一つの品を使い続けるところにも嘉兵衛の性格がよく表れていると言えます。
105cmの望遠鏡
当時としては大型で特注品とみられています。
船乗りとして初めて建造した船・辰悦丸が当時最大級だったことを考えると、一流の品で勝負しよう、という気概を感じられます。普段は粗末な暮らしをしていますが、商売などに関しては一流たる威厳があったのではないでしょうか。
まとめ
ゴローニン事件をめぐって、高田屋嘉兵衛の生き方や考え方を見てきました。彼は、どんな人に対しても対等な立場を保つ考え方、コミュニケーションを通して信頼関係を築く力、自分の行動に対する責任感や威厳など人間的な強さを持ち合わせている人物だったのです。
参考資料
- 歌舞伎素人講釈『大黒屋光太夫のこと~江戸期におけるロシア漂流民』
http://kabukisk.com/dentoh104.htm - 高田屋顕彰館『嘉兵衛物語』
http://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm - nippon.com『【高田屋の松と茶碗】 ライカ北紀行 ?函館? 第45回』
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu014045/ - HYOGO ODEKAKE PLUS『豪商・高田屋嘉兵衛の足跡一挙 洲本、PRに本腰』
https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/pickup/201707/10394533 - 生田美智子『カムチャッカの高田屋嘉兵衛』 大阪大学
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/8653/slc_36_201.pdf
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