人物エピソード - 江藤新平 明治維新で信念に生き、壮絶な最期を遂げた男の生き様とは?

江藤新平は幕末から明治期にかけて活躍した政治家で、教育や司法、警察などあらゆる分野に功績を残しました。江藤は「佐賀の八賢人」の一人に称されるほど優秀な人物です。彼は明治政府に対して「佐賀の乱」という反乱を起こしたために、40歳の若さで命を落としています。彼をよく知る大隈重信は『之(江藤新平)を失つたる国家は更に甚大なる損害であり、不幸であつた』と無念をあらわにしていました。その一方で、彼の性格についての評価は厳しく、渋沢栄一は彼を『礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も顕著な例』としています。
・「人民の権利」を第一に考える性格だった
・理想主義者で正義感が人一倍強かった
・妥協を許さず、頑固であった
そんな彼の性格と生涯を紹介していきます。
江藤新平の生涯
江藤新平は、1834年に佐賀の貧しい下級藩士の家庭で生まれました。若い頃から人並外れた頭脳を持っており、枝吉神陽という儒学者の下で尊王思想を学びました。23歳で開国の必要性を説く「図海策」を執筆したことで、才能が認められ始めます。明治新政府が誕生してからは、数々の役職に就任し、近代的で四民平等な国家づくりに専念します。30代で文部省の文部大輔に就任し、「学制」の基礎を固めました。その後、初代司法卿に就任し、警察制度・司法制度の整備を進めました。明治14年には、政府内で勃発した征韓論がきっかけで下野し、板垣退助とともに自由民権運動を始めます。その後、明治政府の政策に不満をもつ士族を集めて「佐賀の乱」を起こしますが敗北し、40歳でこの世を去りました。
江藤新平の名言・格言
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人智は空腹よりいずる
江藤新平は下級藩士の家に生まれ、貧しい生活を送っていましたが、めげずに日々勉学に励んでいました。この言葉は、この窮乏生活を強がって口癖にしていたものだと言われています。
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ますらおの 涙に袖をしぼりつつ 迷う心はただ君がため
この言葉は、江藤の辞世の句です。彼は「佐賀の乱」の刑罰として、公開処刑され、晒し首になってしまいます。彼は生前、司法制度の整備に尽力していましたが、この判決は正式な裁判に基づいたものではありませんでした。司法制度を無視して死刑が強行されてしまったことに対する無念や絶望を、この言葉で表現しているのかもしれません。明確な訳は分かりませんが、「勇ましい男が涙を流しております。迷う気持ちはありますが、天皇様のために今まで尽くしてきたのです。」といったところでしょうか。
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江藤新平の成果や実績
「人民の権利」を守るという信念
江藤新平は法律の下ですべての人が平等に暮らせる世の中を目指していました。そんな彼の功績は、教育・司法・警察制度などあらゆる分野で現代に引き継がれています。彼が特に尽力したのが、「人民の権利」を守ることでした。江藤は司法省を設立し、日本で最初に近代的な裁判制度を確立させました。従来の「役人が民を裁く」在り方から「民の権利を守るための裁判」の形に変えたのです。その一環として、民衆が役人を訴えることができるようにする通達を半ば強引に発布したことは、当時としては衝撃的な政策だったようです。その後も江藤は、文部省を設置し学校を全国的なものにしたり、指名手配制度を設けて警察制度の基盤を作ったりと、近代的な国家を形作っていきました。今では「司法」「立法」「行政」が干渉されない「三権分立」が当たり前ですが、江藤が日本に導入させようと画策していたものでした。しかし、大久保利通率いる当時の政府は「司法」と「行政」を同一にしようとしていました。ここで意見の食い違いが起こりましたが、江藤は人の言うことに耳を傾けずに自分が信じることへ突き進む性格だったので、次第に政府との間に軋轢が生じていきました。
不正は許さないという正義感
江藤は正義感が人一倍強く、不正は許さない性格でした。そのため、政治家の山形有朋や井上薫の汚職を追及し、弾劾していきます。そのうち、政府から煙たがられる存在になってしまいます。そんな時に、政府内で、韓国を武力で征服すべきか否かという「征韓論」で意見が真二つに分かれます。江藤は征韓を主張していましたが、論争に敗れて憤慨した江藤は辞職する決心をしました。
頑固な信念は時に破滅を招く
このころ、地元の佐賀では明治政府に不満のある武士が荒れていたので、江藤はそれを鎮めるべく佐賀に向かおうとします。しかし、江藤のこの行動は政府に残った大久保らにとっては好都合でした。ここで政府が佐賀に軍隊を送り込めば、江藤と武士という不安因子を両方とも抹消できると考えたのでしょう。実際に、江藤と親しかった大隈重信は「飛んで火に入る夏の蟲」と言って、何度も江藤を引き留めたそうです。しかし、江藤の頑固さは、自分の信念を曲げることを許しませんでした。「自分がこの場を治めてみせる」と言っていた江藤ですが、佐賀の武士たちに乗せられる形で「佐賀の乱」を起こすのです。結果は政府の圧勝。政府は全てを見据えていたのかもしれません。江藤の頑固で信念に突き進む人柄が、自らの破滅を招いてしまったのでしょう。結果的に、江藤の主張は裁判で無視され、3日間の晒し首の刑という無念な形で死を迎えるのでした。
江藤新平の愛用品や大切にしていること
愛読書:孟子
孟子とは「性善説」を説いた中国の儒学者ですが、ここでいうのはその教えが書かれた本のことです。江藤が「孟子」を読んでいたというエピソードが一つ伝わっています。当時、数人の女性が、通りを歩く藩士に声をかけて鬱憤を晴らす慣習があったようです。しかし、江藤が通りを歩いても、女性たちは江藤のみすぼらしい姿を見ると、近づいてきませんでした。それに怒った江藤はその場で「孟子」を大声で読み上げて、あてつけがましく立ち去ったのだと言います。
愛刀:肥前刀
この刀には「遠くは神武の遺蹤(いしょう)を履(ふ)み、近くは天智の基業を襲う」という文字が彫られています。「古来の天皇の偉業を手本にして、明治天皇とともに新しい時代を作り出す」という江藤の意気込みが込められているようです。
まとめ
30歳の頃から政治の才能を発揮し、人民の権利を守るために尽力してきた江藤新平。彼が「佐賀の乱」で亡くなっていなければ、日本に更なる革新をもたらしてくれていたことでしょう。正義感の強さや不正を許さない清廉潔白さが、かえって自分を追い詰めてしまうこともあります。人間関係を良好に保ち、どんな人の意見でも尊重できていたら、このような悲劇は生まなかったのかもしれません。
参考資料
- sagabai.com『江藤新平 ~「民権」を訴えた初代司法卿~』 佐賀市観光協会
https://www.sagabai.com/main.php/3773.html - 星原大輔『大隈重信と江藤新平・江藤新作』 早稲田大学
https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2018/01/WasedaDaigakushiKiyo_46_Hoshihara.pdf - PR TIMES『佐賀県立博物館「最上大業物 忠吉と肥前刀」展にて日本刀を体感できるイベント開催』 佐賀県
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000145.000018574.html - 歴史秘話ヒストリア『裁判はじめて物語~明治の人々はどうしたの?』 NHK
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/7.html - 佐賀地方検察庁『初代司法卿 江藤新平』
http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/saga/page1000232.html
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