日本の名言・格言 - 山名持豊(宗全) 応仁の乱をもたらした大名 名言と生涯
山名持豊(宗全)の生涯、名言などを紹介します。
山名持豊(宗全)とは

- 日本の大名
- 室町時代の守護大名であり、山名氏をかつての大勢力へと復興させた
- 細川家との対立により応仁の乱をもたらし、西軍の総大将として「宗全入道」や「赤入道」と呼ばれた
山名持豊(宗全)の出身・生涯
- [1404年~1473年]
- 山名持豊は山名時熙の3男として生まれる
- 山名氏はかつて11カ国の守護大名であったが、1391年の明徳の乱により将軍家により力を削がれた
- 山名時熙は山名氏の勢力を取り戻し、但馬・備後などの4カ国の守護大名となった
- 1420年、時熙の長男である満時が死去する
- 将軍の足利義教は、二男である山名持熙が家督を継ぐように命じたが、1431年に廃される
- 1433年、時熙は29歳の持豊に家督を譲る
- 時熙は日明貿易の横領疑惑により失脚し、1435年に死去する
- 持豊は足利義教に仕え、出世していく
- 足利義教は管領や守護大名の家督相続に介入し、混乱をもたらし、「悪御所」として恐れられた
- 1441年、播磨等の守護大名である赤松満祐によって足利義教が暗殺される
- 持豊は暗殺時に同席してたが、屋敷を出て挙兵し、赤松満祐を自害に追い込む
- 持豊は播磨を含む3国の守護に任命され、9カ国の守護大名となる
- 1442年、持豊は47歳のとき、出家して法号を宗全とした
- 1447年、山名熙貴の娘を幕府管領の細川勝元の妻とし、その後、細川勝元は持豊の末子である豊久を養子に迎える
- 宗全は細川家と関係を深め、畠山家を分裂させて力を削いだ
- やがて細川勝元との溝が広がり、赤松氏の擁護や畠山氏・斯波氏の家督争いで対立し、将軍の家督争いにも発展する
- 1467年頃から大乱(応仁の乱)が引き起こされ、山名宗全は西軍の総大将として長い戦乱が続く
- 1471年、朝倉孝景が西軍から東軍に寝返り、東軍が優位となる
- 1472年、宗全は家督を山名政豊へ譲り、1473年に宗全は病死する (細川勝元も同年に死去)
山名持豊(宗全)の名言・格言
山名持豊(宗全)の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは山名持豊(宗全)の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- あなたたち公家は先例にこだわり、時代の移り変わりに疎いから、武家の辱めを受けて天下を奪われ、媚びへつらう様になったのです。
出典:塵塚物語 - これからは「例」という文字を「時」に変えてください。
出典:塵塚物語
出典、参考リンク
日本の名言・格言 - 山名持豊(宗全) 応仁の乱をもたらした大名 名言と生涯