日本の名言・格言 - 戦国時代の名軍師 竹中重治(半兵衛) 名言と生涯
竹中重治(半兵衛)の生涯、名言、関連動画などを紹介します。
竹中重治(半兵衛)とは

- 日本の戦略家、大名
- 豊臣秀吉が三顧の礼により家臣として迎え、黒田官兵衛とともに軍師として「両兵衛」や「二兵衛」と評される
- 斎藤氏の家臣だった時、わずか十数名で1日で稲葉山城(岐阜城)の乗っ取りを行う
- 漢の劉邦の軍師である張良の兵法書や、三
竹中重治(半兵衛)の出身・生涯
- [1544年~1579年]
- 1544年、斎藤氏の家臣である竹中重元の子として生まれる
- 1560年、竹中家の家督を相続し、菩提山の城主となる
- 斎藤義龍に仕え、1561年に義龍が死去し、斎藤家の家督を継いだ斎藤龍興に仕える
- 1561年、織田信長が美濃に侵攻が始まり、1563年に重治は戦法「十面埋伏陣」により織田軍に勝利したと言われる
- 酒色に溺れて政を行わない斎藤龍興に対して、1564年に重治は十数名で稲葉山城(岐阜城)を襲撃し、龍興を逃亡させ、城を乗っ取った
2月に稲葉山城を乗っ取り、8月頃には斎藤龍興に返還し、その後は隠遁生活を送る - 1567年、織田信長の侵攻により斎藤氏は没落し、重直は浅井長政の客分となるが、1年後には旧領の岩手で隠棲する
- 1567年頃、豊臣秀吉により家臣として仕えることになり、六角氏との戦いや浅井家内への調略で活躍する
- 豊臣秀吉の中国攻めには総大将に任じられ、宇喜多氏の家臣である明石氏の調略などで活躍する
- 1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした際、信長は黒田官兵衛が離反したと思い込み、官兵衛の嫡男(黒田長政)を殺害するように秀吉へ命じたが、重治は信長の首実検に偽の首を提出させることで黒田長政を助けた
- 1579年、中国攻めにおける播磨三木城の包囲中に病に倒れて死去
竹中重治(半兵衛)の名言・格言
竹中重治(半兵衛)の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは竹中重治(半兵衛)の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 分に過ぎたる価をもって馬を買うべからず
これは半兵衛が常に貧相な馬に乗っていたことを気にかけた秀吉に対しての返答で、「高すぎる馬は買うべきではない。なぜなら、戦場で高価な馬のことが気にかかり、注意力が散漫になってしまうからだ」という意味が込められています。常に戦でのパフォーマンス必要経費を考えていたことが分かります。 - 要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければ、要害堅城も物の用をなさない。
出典:武功夜話
「堅固な守りを誇る立派な城があったとしても、人の心が一つにならなければ無意味」という意味で、難攻不落と言われた稲葉山城をたった17人ほどで制圧した際の言葉だと言われています。 - ここに小便をたれるとも、軍物語をしている大事な席を立ってはならぬ。
出典:常山紀談 - 合戦談を聞く場合、たいていな者は大事なことを問わず、枝葉のことばかり聞きたがる。
・・・
部隊の駆け引き、戦の変化などを主眼にして聞いてこそ、合戦談も役に立つのである。 - 武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。
財宝など塵芥とも思わぬ覚悟が常にあるべきである。
竹中重治(半兵衛)の愛用品 、尊敬する人物
竹中重治(半兵衛)の愛用品 、尊敬する人物 を紹介します。
竹中重治(半兵衛)の大切にしていることを知り、深く理解するための手がかりになります。
- 虎御前の太刀
織田信長と浅井長政との間で行なわれた小谷城の戦いの功として豊臣秀吉から拝領した名刀です。
。彼はこの刀を後生大事にしたようですが、実戦で使用したことはあまりなかったようです。 - 黒田官兵衛
黒田官兵衛は同時期に秀吉のもとに仕えた名軍師でした。半兵衛とは正反対の性格を持ちながらも、優れた戦術と人柄で半兵衛からの信頼を得ていたようです。
半兵衛と官兵衛の絆を象徴するエピソードが一つあります。織田信長の家臣・荒木村重の謀反で黒田官兵衛が幽閉された時、織田信長は官兵衛が裏切ったと誤解し、官兵衛の息子を殺せと命じました。しかし、半兵衛は
竹中重治(半兵衛)の愛用品
竹中重治(半兵衛)の尊敬する人物
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竹中重治(半兵衛)の関連動画
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竹中重治(半兵衛)の生き方や考え方について、より深く知るために参考になる動画です。
説明動画 『軍師・竹中半兵衛重治131205』 2013年
動画配信元:seichan77
出典、参考リンク
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