日本の名言・格言 - 立花宗茂 西の無双として名高い武将 名言、生涯
立花宗茂の生涯、名言などを紹介します。
立花宗茂とは

- 日本の武将、大名
- 西の無双として豊臣秀吉に恐れられ、徳川家からも重用された武将である。
- 戦国時代には九州の大友氏の家臣として活躍するが、豊臣秀吉の九州征伐で武勲を上げたことで大名に出世する。
- 実父は高橋紹運、義父は立花道雪であり、両者とも優れた武将を父にもつ。
- 関ヶ原の戦いでは西軍に与したにもかかわらず、旧領に復帰した唯一の大名でもある。
立花宗茂の出身・生涯
- [1567年~1643年]
- 1567年、豊後国(大分県)において吉弘鎮理(高橋紹運)の長男として生まれる
- 鎮理は豊後国を治める大友氏の重臣であり、文武に通じた忠義のある名将と知られる
- 1559年、鎮理は高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種と称したため、高橋統虎と名乗ることになる
- 大友氏は肥後国北部(熊本県)や肥前国(佐賀県)にも勢力を広げたが、1578年には島津家との戦いに大敗を喫し、多くの武将を失う
- その後、筑後国の領主や龍造寺氏、秋月氏などが謀反し、島津家の勢力が拡大していく
- 1581年、大友氏の重臣である戸次鑑連(立花道雪)の婿養子となり、家督を譲られ、戸次統虎と名乗ることになる
- 統虎は大友氏の武将として九州北部ででの戦いに従事し、戦功を上げる。
- 1584年、立花道雪と高橋鎮種により、筑後国の多くを奪還するが、翌年に立花道雪が病死したことから状況は悪くなる
- 1586年、高橋鎮種は島津家の侵攻により戦死する
- 大友氏の当主である大友宗麟は、豊臣秀吉に臣従し、支援を要請する
- 1586年、豊臣秀吉による九州征伐が行われ、立花宗茂は秀吉軍の西部戦線軍として戦功をあげる
- 豊臣秀吉は立花宗茂へ筑後国柳川を与え、独立した大名に取り立てる
- 1590年の小田原征伐、1592年からの文禄の役に従軍し、戦功を立て、秀吉から高く評価される
- 豊臣秀吉が死去し、1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍として、東軍と戦う
- 関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、柳川でも黒田如水や加藤清正、鍋島直茂の軍と戦うが、降伏する
- 徳川家康により改易されるが、1604年に陸奥国棚倉の一部を与えられ、大名として復帰する
- 徳川幕府の家臣として、大坂冬の陣・夏の陣に参軍、徳川秀忠・家光にも重用される
- 1620年、筑後国柳川を与えられ、旧領に復帰する
- 1638年、島原の乱にも参軍し、1643年に死去
立花宗茂の名言・格言
立花宗茂の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは立花宗茂の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 戦いは兵が多いか少ないかによるものではなく、一つにまとまった兵かどうかである。
人数が多いからといって勝利できるものではない。 - 寝屋で話すことも全て、部下に漏らさず告げています。
秘密を持たなければ、目付けのような観察役はいりません。 - 大将がいかに采配をとって、ただ「進め」や「死ね」と言っても、そのような下知に従う者はいない。
常々から上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ
日本の名言・格言 - 立花宗茂 西の無双として名高い武将 名言、生涯