日本の名言・格言 - 大久保彦左衛門(忠教) 江戸の「天下の御意見番」で知られる義侠の武士 名言、生涯
大久保彦左衛門(忠教)の生涯、名言などを紹介します。
大久保彦左衛門(忠教)とは

- 日本の大名、武士
- 戦国時代から江戸時代の徳川家の旗本であり、徳川家康、秀忠、秀光に仕えた
- 江戸幕府の「天下の御意見番」や「義侠の武士」として知られ、徳川家の歴史や三河武士の精神を示した「三河物語」の著者でもある
- 後世には、弱者を救う忠義の武士として、将軍家や諸大名に諫言した人物像や大たらいに乗って登城した逸話が作られる
大久保彦左衛門(忠教)の出身・生涯
- [1560年~1639年]
- 三河国の松平家の家臣である大久保忠員の8男に生れる
大久保忠員は松平清康(徳川家康の祖父)の頃から三代に渡って仕えた - 忠教は兄である大久保忠世とともに松平家の家臣として仕える
- 1576年、16歳の時に初陣で功を上げ、旗本となる
- 1585年、第一次上田城合戦では真田昌幸とも戦を交える
- 1590年、徳川家康が江戸に移封される
- 1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し、第二次上田合戦において真田昌幸・真田幸村と戦う
- 1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府を設立する
- 次兄の大久保忠佐の跡取りが死去し、忠教を養子として家督相続させる打診に対し、勲功が無いことを理由に固辞した
- 兄の大久保忠世の跡取りである忠隣が幕府内政争に敗れて失脚し、忠教も連座して改易された
- その後、徳川家康の旗本として三河国額田(愛知県内)に1000石の大名として復帰する
- 1614年、大坂の陣にも従軍する
- 江戸幕府の第二代将軍の徳川秀忠や第三代将軍の徳川家光にも仕える
- 2000石の大名となり、1635年頃から「三河物語」の執筆を行う
- 晩年には家光から5000石の加増を打診されたが固辞する
- 1639年、80歳で死去する
大久保彦左衛門(忠教)の名言・格言
大久保彦左衛門(忠教)の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは大久保彦左衛門(忠教)の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 御知行下されずとも、御主人様にご不足に思い申すな。
過去の定業なり。
出典:三河物語
子孫に向けた教訓として述べたと言われているものです。
主君からの知行が無くても、それは過去の運命だと思って忍従することが重要だと説いたものです。 - 主に弓を引き、別儀や別心をしたる人が、知行をも取り、末も栄え、孫子までも栄えると見たり。
出典:三河物語
主君に対して弓を引き、主君に別心を抱いた者が繁栄している事実を述べたと言われています。 - 電光、超露、石火の如くなる夢の世に、なんと渡世を送ればとて、名には代ふべきか。
人は一代、名は末代なり。
出典:三河物語
いかに出世して繁栄したとしても、一人の人生はとても短く、夢のように儚いものであるが、名誉は末代までの残ると述べたものです。 - よく聞け。地獄も極楽もかならずある。
地獄があることを忘れず、奉公に励め。
出典:三河物語 - 御慈悲を以て一つ、御武辺を以て一つ、良き御譜代を以て一つ、御情を以て一つ、是に依て御代も末ほど御繁昌、目出度なり。
出典:三河物語
出典、参考リンク
大久保彦左衛門の関連書籍 Wikipedia コトバンク lib.city.minato.tokyo.jp
日本の名言・格言 - 大久保彦左衛門(忠教) 江戸の「天下の御意見番」で知られる義侠の武士 名言、生涯