日本の名言・格言 - 近藤勇 天下に名を轟かせた新撰組の局長 名言、生涯
近藤勇の生涯、名言などを紹介します。
近藤勇とは

- 日本の武士
- 新撰組の局長として江戸時代末期に京都の警備を担った人物であり、天然理心流の四代目宗家でもある
- 新撰組は京都警備として天下に名を轟かせ、江戸幕府の幕臣にもなった
- 時流は一転し、幕府軍は朝敵となり、鳥羽伏見の戦い・勝沼字柏尾の戦いを経て捕縛されて斬首される
近藤勇の出身・生涯
- [1834年~1868年]
- 武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水町)の豪農である宮川久次郎の三男として生まれる
- 天然理心流の3代目宗家である近藤周助に学び、後に養子となり、天然理心流の四代目宗家となる
- 1863年、清河八郎らが結成した「浪士組」に土方歳三とともに加わる
八郎は浪士組による尊皇攘夷を唱えるが、水戸藩の芹沢鴨や土方歳三とともに反対して袂を分ける
京都に残留し、京都守護職の会津藩預かりとして警護を担う「壬生浪士組」が結成される
同年8月、朝廷の武家伝奏より「新撰組」の隊名を下賜される
同年9月、芹沢鴨を粛清し、新選組局長となる - 1864年、池田屋の尊攘派志士を襲撃した「池田屋騒動」で名を馳せ、長州藩が挙兵した「禁門の変」にも従軍する
- 1865年、長州訊問使である永井主水正尚志に随行して長州を訪問する
- 1867年、新選組の隊士は江戸幕府の幕臣となる
- 1868年、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に従軍するが、幕府軍が大敗し、井上源三郎ら隊士7名が戦死する
江戸に引き揚げた後、同年2月に甲陽鎮撫を命じられ、新撰組は「甲陽鎮撫隊」に改名する
甲府へ向かうが、板垣退助の率いる迅衝隊が甲府城入城を果たし、勝沼字柏尾(山梨県甲州市)で迅衝隊と交戦するが敗走する
同年4月、下総流山(千葉県)で捕縛され、板橋において斬首され、京都の三条河原に梟首される
近藤勇の名言・格言

近藤勇の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは近藤勇の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 恩を負うて義を守る皇州の士
一志を伝えん洛陽に入る
昼夜の兵談何事を作す
攘夷誰と斗る布衣の郎
出典:屏風 - 管宗次『俳遊の人・土方歳三 句と詩歌が語る新選組』
清河八郎と袂を分け、京都に残留して京都の市中警備をすることになったときに自身の攘夷の志を詠んだ漢詩の読み下し文です。 - 丈夫志を立てて、東関を出ず
宿願成す無くば復た還らず
報国尽忠三尺の剣
十年磨て腰間に在り
出典:書状 (笹部昌利 編集『幕末維新人物新論』)
清河八郎と袂を分け、京都に残留して京都の市中警備をすることになったときに、郷里である多摩の門人や友人に宛てた書状に書かれた漢詩の読み下し文です。
志を立てて郷里を出たからには攘夷を果たすまでには帰らないという強い意思が込められています。 - 富貴利名は豈羨む可けんや
悠々として官路は浮沈に任す
此身更に苦辛有るに在り
飽食暖衣は我心に非らず
出典:小島資料館 所蔵資料
新選組結成時の心境を記した漢詩の読み下し文です。
名誉や地位を羨むことなく、新選組の役目は浮き沈みがあることは仕方ないことであり、我が身に苦しいことや辛いことがあったとしても、贅沢は望むところではないと述べています。 - 他に靡き今日復た何言わん
義を取り生を捨つ吾が所尊
快受する電光三尺の剣
只に一死せんとして君恩に報いん
出典:龍源寺
新政府軍に敗れ捕縛される前に、覚悟を決めて詠んだ漢詩の読み下し文とされています。 - 孤軍援け絶えて俘囚となる
君恩を顧みて念い涙更に流る
一片の丹衷能く節に殉ず
雎陽千古是れ吾が儔
出典:龍源寺
新政府軍に敗れ捕縛される前に、覚悟を決めて詠んだ漢詩の読み下し文とされています。 - 曾て聞く蛮貊五臣を称す
今見る虎狼の我が津を候う
回りて復た誰か神后の趾を尋ねん
来りて慎むを向え和親を用うるなし
出典:書状 - 管宗次『俳遊の人・土方歳三 句と詩歌が語る新選組』
新撰組局長になった後、京都守護職に宛てた口上願書の写しを多摩の門人や友人に手紙にして送っており、その写しの奥に書かれた漢詩の読み下し文です。 - 百行の所孝に依り忠に興る
之を取りて失果無き英雄
英雄是を悲しみ吾事に曹う
赤心を以て羌戎を攘んと欲す
出典:書状 - 管宗次『俳遊の人・土方歳三 句と詩歌が語る新選組』
新撰組局長になった後、京都守護職に宛てた口上願書の写しを多摩の門人や友人に手紙にして送っており、その写しの奥に書かれた漢詩の読み下し文です。
出典、参考リンク
近藤勇の関連書籍 コトバンク Wikipedia ndl.go.jp

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