日本の名言・格言 - 清河八郎 明治維新の火付け役 幕府に暗殺された男 名言、生涯
清河八郎の生涯、名言、関連動画などを紹介します。
清河八郎とは

- 日本の武士
- 明治維新の火付け役となった幕末志士
- 文武に優れ、全国を闊歩し、西日本などの志士と関係を結ぶ
- 将軍警護の名目で浪士組を結成し、隊士を集めて尊皇攘夷を試みるが、暗殺される
(浪士組は新選組の前身となる)
清河八郎の出身・生涯
- [1830年~1863年]
- 酒屋を営む斎藤家の長男として、出羽国田川郡清川(山形県庄内町)に生まれる
- 1847年、江戸に出て儒学者の東条一堂や朱子学者の安積艮斎などに師事する
- 北辰一刀流の千葉周作から免許皆伝を許される
- 1854年、江戸幕府の学問所である昌平黌に入学する
- 江戸の神田で「清河塾」を開塾し、儒学や剣術の指南を始める
- 1855年、母を連れて清川村から善光寺、名古屋、伊勢、京都、宮島、鎌倉、江戸、日光などを巡る大旅行をし、記録「西遊草」を残した
- 1860年、山岡鉄斎らと虎尾の会を結成し、尊王攘夷の活動を始める
- 江戸幕府より追われる立場となり、東北や九州へ逃亡し、遊説する中で尊皇攘夷の志士などと関係を結ぶ
- 1862年、江戸幕府より、尊皇攘夷の大赦と佐幕のための「浪士組」の結成の許可を得る
- 1863年、八郎は浪士組による尊皇攘夷を唱えるが、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが反対して袂を分ける
- 3月に浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷へ提出するが、4月に江戸で幕府の刺客により暗殺される
清河八郎の名言・格言
清河八郎の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは清河八郎の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 太閤朝鮮征伐の為に日本の武蔵いかばかりの強みに及びしや、今にいたる迄万威の外国にかがやき、容易に事をいたさぬは、ひとえに太閤武威をあらわし置きし功にあらずや
出典:西遊草
豊臣秀吉が朝鮮へ攻めたことにより、外国から簡単に責められることが無い国になったと考え、そのことを評価しています。 - 徳川家御入府の己来、遂天下第一の勝地と相成。
余の人千金を遠うしとをもわつ来会するに、幸い三百余蔵も太平無事と相成ける故、ますます光輝に相成、百物一として至らさるはあらす。
出典:西遊草
江戸の町を天下第一として評価し、徳川幕府によって平和が三百年築かれたことについて評価しています。 - 魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ皇の道
砕けても また砕けても寄る波は 岩角をしも打ち砕くらむ
出典:清河八郎記念館
暗殺当日に詠んだという歌であり、辞世の句となりました。
尊王攘夷における行動や状況について詠んでいると言われています。 - 夫れ学問とは人道を謂うなり
出典:中庸贅言
学問とは経学や詩文、功学というバラバラのものではなく、人道という概念で統一されるものだと述べています。 - 世に経学と称する者あり、詩文と称する者あり、功利と称する者あり、その学を為す所以を観るに、経は訓話に眩み、詩は浮華に流れ、功利は刻薄に陥る、皆一片の学にして大公至誠の道に非ざるなり。
出典:中庸贅言
孔子を学ぶことや、 漢詩を読むこと、実用の学を学ぶことなど、学問の一部分を学ぶ者が多いことを指摘しています。
しかし、これらの学問をみな修めてこそ聖人の術が備わると主張しています。 - 堂々なる我日本、 神祖開闢より到今千余歳、威武万邦に冠絶いたし居候処、 此度の一条にて大恥辱を得、万代の面目を失い、苦々敷事言語に絶えかね候
出典:書状 (笹部昌利 編集『幕末維新人物新論』)
ペリーの黒船対する八郎の印象について述べられたものです。
清河八郎の関連動画
清河八郎の関連動画を紹介します。
清河八郎の生き方や考え方について、より深く知るために参考になる動画です。
説明動画 『清河八郎~幕末維新の火付け役~』
動画配信元:山形県庄内町
出典、参考リンク
日本の名言・格言 - 清河八郎 明治維新の火付け役 幕府に暗殺された男 名言、生涯