日本の名言・格言 - 今村均 マッカーサーに「真の武士道」と言わしめた軍人 名言、生涯
今村均の生涯、名言、ゆかりのあるものなどを紹介します。
今村均とは

- 日本の軍人
- 陸軍軍人であり、太平洋戦争では蘭印作戦を指揮し、ジャワ島の上陸を成功させる
- ラバウルに着任後は、自給自足と要塞化を進め、終戦まで防衛線を維持した
- 戦後、元部下が収監されているパプアニューギニアでの服役を直訴し、マッカーサーに「真の武士道」だと言わしめた
- 服役後は自宅に籠り、質素な生活を送り、執筆の印税を戦死者や戦犯者、遺族のための援助に使った
今村均の出身・生涯
- [1886年~1868年]
- 宮城県仙台で生まれる
- 1915年、陸軍大学を首席で卒業する (同期生には東條英機がいた)
- 参謀本部部員や陸軍省軍務局課員などを経て、1931年に参謀本部作戦課長に就任する
- 歩兵第五十七連隊長や歩兵第四十旅団長などを経て、1936年に関東軍参謀副長・兼駐満州国大使館附武官に就任する
- 1940年、教育総監部本部長に就任し、戦陣訓の制定に関わる
- 1941年に太平洋戦争が起き、ジャワ方面軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)の蘭印作戦を指揮する
- 1942年、スマトラ島の都市パレンバンを占領し、翌月にジャワ島上陸作戦を成功させる
- 軍政指導者として現地の統治を行い、インドネシア独立運動家であるスカルノやハッタなどの政治犯を解放して援助する
- 1942年11月にニューブリテン島のラバウル方面軍司令官となり、1943年には陸軍大将としてアメリカ軍に対する防衛作戦を指揮する
- 食料の自給自足体制を整え、1945年の終戦までラバウルを維持する
- 1946年、ラバウル戦犯者収容所に入所し、1947年にオーストラリア軍裁判で禁固10年刑となり、1948年には死刑を求刑されるが無罪となる
- 1950年、東京に送還されるが、現地の部下が収容されているマヌスでの島服役を申し出て移送される
- 1954年の出所後は、世田谷の自宅に籠って質素な生活を送り、回顧録などの執筆を行い、印税を戦死者や戦犯者、遺族のための援助を行う
今村均の名言・格言

出典:第16軍司令官として座乗していた陸軍特種船「神州丸」 wikimedia
今村均の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは今村均の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減することをはかる。
これは我々の外地における最後のご奉公である
出典:太平洋戦争等の記録
終戦の知らせを聞き茫然自失とした麾下の将兵に対して、今村均が下した命令です。彼は戦争が終わっても国の在り方を考え続け、また、常に部下に目的意識を持たせるように働きかけていました。 - 日本の将兵の中に処罰すべき者がいるというのなら、私一人を裁けばいい。
部下はみな、私の命令を実行したにすぎないのだから
出典:太平洋戦争等の記録
今村均は終戦後、69名の部下が戦犯として起訴されたと聞いた際こう述べました。実際の裁判でも積極的に部下を弁護し、処罰の軽減に努めたそうです。
今村均のゆかりのあるもの
今村均にゆかりのあるものを紹介します。
今村均が残した実績や、人々からの評価を読み解くことができます。
- 三畳小屋
今村均は軍事裁判による服役から釈放後、質素な三畳の小屋を建て、軍人恩給のみの質素な生活を送ります。自身が上官として戦場に部下を赴かせたことを罪と感じ、それを償うための行為でした。 - 「インドネシア・ラヤ」のレコード
インドネシア占領時、この曲の流行を知った今村均はレコードを発注し現地住民に配り、大変喜ばれます。「インドネシア・ラヤ」とは「独立運動を讃えた歌」で、今日の国歌となっています。
今村均の関連記事
![]() | 今村均 「聖将」と呼ばれた奉仕型リーダー |
出典、参考リンク
今村均の関連書籍 Wikipedia shuchi.php.co.jp ifsa.jp
日本の名言・格言 - 今村均 マッカーサーに「真の武士道」と言わしめた軍人 名言、生涯