日本の名言・格言 - 南北朝時代に九州を平定した武将 今川了俊(貞世) 名言、生涯
今川了俊(貞世)の生涯、名言などを紹介します。
今川了俊(貞世)とは

- 日本の武将、守護大名、歌人
- 室町時代の守護大名であり、南北朝時代において南朝が支配していた九州平定を果たす
- 和歌、歌論書、連歌学書、紀行文、故実書などを執筆した作家や歌人でもある
今川了俊(貞世)の出身・生涯
- [1326年~1420年]
- 駿河・遠江の守護である今川範国の次子として生まれる
範国は、駿河今川氏の初代当主である - 1350年代には、室町幕府の将軍である足利尊氏と弟の足利直義との抗争において、範国と共に尊氏側として直義派や南朝勢力と戦う
- 1367年、室町幕府の引付頭人、侍所頭人、遠江や山城の守護を務める
- 2代目の将軍である足利義詮が死去したときに剃髪して了俊と号す
- 1370年頃、九州探題に任命され、九州平定のために九州へ進軍する
- 安芸の守護となり、中国地方の軍事力を増強する
- 1372年、南朝方の懐良親王の拠点である大宰府を陥落させる
- 1374年、肥後水島に進軍するが、島津氏久の背反に合い、窮地に陥る
- 1977年、肥前で菊池武朝や阿蘇惟武に大勝する
- 武藤氏を完封し、探題の権限を確立させ、対外交渉の実質的権限を握る
- 1381年、菊池氏の本拠である隈部を陥落させ、島津氏久も死去する
- 1391年、良成親王を降伏させる
- 1392年、南北合体において菊池武朝と和睦し、九州平定を果たす
- 1395年、探題の任を解かれ、遠江と駿河の半国の守護となる
- 1399年からの応永の乱では、大内義弘と鎌倉公方との提携を図ったとされ、乱終結後には追討令が出される
- 1402年、政界に関与しないことを条件に赦免される
- 晩年は、和歌や連歌の指導、述作に取り組む
歌論書、連歌学書、紀行文、故実書など多くの著作を残した
今川了俊(貞世)の名言・格言
今川了俊(貞世)の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは今川了俊(貞世)の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 幼少の時より道の正しき輩に相供なひ、かりそめにも悪友に随順あるべからず。
出典:今川了俊愚息仲秋制詞条々 - 昔より、連歌師のくせにて、友を言いけなして、己ばかりをかがやかすと、承り及びしこと、いまだもはべるめり。
出典:落書露顕 - 学文無くしては政道成るべからざるの旨、四書五経、その他の軍書等にも顕然なり。
出典:今川了俊愚息仲秋制詞条々 - 招けども、諸人疎みて出入の輩なき時は、己が心行正しからざることを知るべし。
出典:今川了俊愚息仲秋制詞条々 - 一国一群を守る身に限らず、衆人の愛敬なくしては、諸道成就することかたし。
出典:今川了俊愚息仲秋制詞条々
出典、参考リンク
日本の名言・格言 - 南北朝時代に九州を平定した武将 今川了俊(貞世) 名言、生涯