日本の名言・格言 - 江藤新平 明治維新に貢献するが佐賀の乱で処刑された男 名言、生涯
江藤新平の生涯、名言、関連動画などを紹介します。
江藤新平とは

- 日本の武士、官僚、政治家
- 明治政府の役人であり、四民平等を説き、司法制度や警察制度を作り上げる
- 「維新の十傑」や「佐賀の七賢人」の一人として知られている
- 佐賀の征韓党の首領となり、佐賀の乱で敗北して処刑される
江藤新平の出身・生涯
- [1834年~1874年]
- 佐賀藩士の江藤胤光の長男として生まれる
- 1848年、藩校の弘道館へ入学して優秀な成績を修める
- 江藤胤光が職務怠慢により郡目付役を解職となり、生活は困窮する
- 儒学・国学の学者である枝吉神陽の私塾に学ぶ
- 1862年、脱藩し、長州藩士の桂小五郎などと接触するが、帰郷して佐賀藩から無期謹慎を命じられる
- 1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、新平は蟄居を解除される
- 戊辰戦争では、東征大総督府の軍監に任命される
- 1870年、私擬憲法となる「国法会議案、附国法私議』を起草する
- 1872年に司法卿となり、司法制度整備や民法制定などを行う
- 1873年、征韓論を唱える西郷隆盛に同調するが、征韓論争に敗れる
- 1874年に帰郷後、佐賀の征韓党の首領となり、佐賀の乱で敗北して処刑される
江藤新平の名言・格言
江藤新平の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは江藤新平の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 人智は空腹よりいずる
江藤新平は下級藩士の家に生まれ、貧しい生活を送っていましたが、めげずに日々勉学に励んでいました。
この言葉は、この窮乏生活を強がって口癖にしていたものだと言われています。 - ますらおの 涙に袖をしぼりつつ 迷う心はただ君がため
この言葉は、江藤の辞世の句です。彼は「佐賀の乱」の刑罰として、公開処刑され、晒し首になってしまいます。
彼は生前、司法制度の整備に尽力していましたが、この判決は正式な裁判に基づいたものではありませんでした。
司法制度を無視して死刑が強行されてしまったことに対する無念や絶望を、この言葉で表現しているのかもしれません。 - 男子はすべからく巌頭に悍馬を立てるべし
- 唯、皇天后土のわが心知るあるのみ
江藤新平の愛用書 、愛用品
江藤新平の愛用書 、愛用品 を紹介します。
江藤新平の大切にしていることを知り、深く理解するための手がかりになります。
- 孟子
孟子とは「性善説」を説いた中国の儒学者ですが、ここでいうのはその教えが書かれた本のことです。江藤が「孟子」を読んでいたというエピソードが一つ伝わっています。当時、数人の女性が、通りを歩く藩士に声をかけて鬱憤を晴らす慣習があったようです。しかし、江藤が通りを歩いても、女性たちは江藤のみすぼらしい姿を見ると、近づいてきませんでした。それに怒った江藤はその場で「孟子」を大声で読み上げて、あてつけがましく立ち去ったのだと言います。 - 肥前刀
この刀には「遠くは神武の遺蹤(いしょう)を履(ふ)み、近くは天智の基業を襲う」という文字が彫られています。
「古来の天皇の偉業を手本にして、明治天皇とともに新しい時代を作り出す」という江藤の意気込みが込められているようです。
江藤新平の愛用書
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江藤新平の関連動画
江藤新平の関連動画を紹介します。
江藤新平の生き方や考え方について、より深く知るために参考になる動画です。
説明動画 『江藤新平』 2019年
動画配信元:宇宙のすべての知識 プリンシピア
説明動画 『『戊辰戦争と江藤新平』中西豪先生講演』 2018年
動画配信元:SagaSengoku ‐Labo.
説明動画 『近代司法の夜明け』 2018年
動画配信元:MOJchannel
出典、参考リンク
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