日本の名言・格言 - 尼子経久 中国地方の三大謀将の一人 名言、生涯
尼子経久の生涯、名言などを紹介します。
尼子経久とは

- 日本の武将、大名
- 中国の三大謀将とも呼ばれ、策謀の天才ともいわれる戦国大名
- 若いときに野心から、出雲の守護代を剥奪されるも、出雲の守護代に返り咲く
- やがて出雲を実質統治し、ときには中国地方の11か国を支配する大名となる
尼子経久の出身・生涯
- [1458年~1541年]
- 1458年、出雲の守護代である尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる
- 1474年、人質として守護である京極政経の元へ送られる
- 1478年頃、家督を継ぐ
- 出雲に権力基盤を築こうとしたともいわれ、1484年に居城を包囲されて守護代の職を剥奪される。追放されたともいわれる
- 1500年、守護代となり、京極政経の死後、出雲での権力基盤を築き、実質的に出雲の守護となっていく
- 1513年、戦で嫡男・尼子政久が殺される
- 1520年代、石見国(島根県西部)や安芸国(広島県西部)へ侵攻する
- 1525年、毛利元就が尼子氏との関係を解消し、大内家方につく
- 1530年、3男である塩冶興久が反乱を起こし、大内家の陶興房にも支援を要請し、1534年に鎮圧する
- 1537年、経久は家督を嫡孫の尼子晴久へ譲る
- 1539年、大友氏が大内氏と和解し、大内氏は尼子氏にとって敵対関係になる
- 1541年、晴久は毛利元就を攻めるが、元就の策謀にはまり、陶隆房の大内軍に大敗北を喫す
- 1541年、経久は死去
尼子経久の名言・格言
尼子経久の格言や名言などを紹介します。
一つ一つの言葉からは尼子経久の考え方や理念、大事にしていることを知る手掛かりになるかもしれません。
- 家が滅ぶのは一族の不和からである
- 謀多くは勝ち、少なきは負け
日本の名言・格言 - 尼子経久 中国地方の三大謀将の一人 名言、生涯